教育ママ

教育ママについての弊害ばかり 世間では言われているけれど、 教育ママってほんとにいけないことなのか。

教育ママ 目的

教育ママが親に望むこと。

究極的には子供の自立だ。
困難な場面に陥ったとき、あるいは逆に好機がめぐってきたとき、
きちんとした対応ができる能力を育て、
自らがその場面を打開していけるようにすることだ。

決して、多くの知識を詰め込むことや、
飛びぬけた身体能力、コミュニケーションスキルのみを
身につけさせることではない。

これから何十年と生きていく中で、
常に変化し続ける世の中を、
自らの力で生き抜くことが、教育ママとして自ら課した使命。

I.Q.=生きるチカラ(qikara)
という解釈が好きです。

本当は、Inteligent Quotient(知能指数)の略なんですけど、
生きるチカラという言葉は本質をついてると思う。

強きものが弱きものを守り、
弱きものはさらに弱きものを守り、

そして弱きものは強くなり、
強きものはさらに強くなり、

こうして一人ひとりの生きるチカラの底上げによって、
人生が豊かになったり、世界が平和になったりするのだろう。

だから、本来世の中のすべての母親は教育ママでなければならない。

結婚したからって、
子供ができたからって、
私は一人の女よ

ってのも否定はしないが、
教育ママとなることを真剣に考えると、
自分も含め、まわりが豊かになり、楽しいかもよ。

教育ママ 実践

教育ママになって欲しいという気持ちはあるが、
それがなかなかどうして簡単なものではない。

世間いっぱいに言うところの
揶揄の対象として使われる「教育ママ」になるのは簡単だろう。

それは、子供への「自分の価値観」の押し付けであり、
かかる責任はすべて子供にのみあり、自分に苦痛が無いからだ。

言ってみれば、実務がこなせないくせに
人のアラを探し、やたらと難癖をつけてくる駄目上司。

これは誰にでもできる。

もちろん、実践して欲しい教育ママのあり方とは
わが子を正しい道へ導く存在としての教育する母の姿だ。

前者の教育ママとの根本的な違いは、
子供を育てるという部分にフォーカスがあたっていること。

子供を育てるということは、ともに歩んでいくという営み。
決して、子供だけでは育たないし、親が押し付けても成り立たない。

喜びも苦しみも分かち合う存在となることだ。

得てして、人は喜びはシェアしたがるが、
他人の苦しみを受け入れようとはしない。

しかし、その苦しみから目をそらすことは、
相手の本質的な部分の一部を見逃すことになり、
トータルな意味で相手のことを知ることができない。

すなわち、その個人にあった対応ができない。

教育ができるわけが無いという結果につながる。

苦しみも共有できる覚悟がなければ、
教育ママの実践はできたとはいえない。

教育ママ 定義

教育ママについての弊害ばかり
世間では言われているけれど、
教育ママってほんとにいけないことなのか。

まず、教育ママの定義ってのものを考えてみたいと思う。

世間一般で言われている教育ママというのは、
将来を期待して、わが子に行き過ぎた教育を行うこと。

しつけやら、教育方針を含め、
自分の思うがままに自分の子供をコントロールしようとすること。
かな。

まずは成績の良い名門校に入学させることが当面の目標。
そこに子供の自由意志はない。
そして、それこそが唯一絶対の価値観であると感じている。

当然、悪意はない。

、、、というぐらいが世間一般にいう
「教育ママ」って言葉だろう。

もちろん、この言葉はこういった
行き過ぎた風潮を揶揄するために作られた言葉だろうから、
物事のよくない面を前面に押し出すし、
それだからこそ教育ママの弊害ってものが強く意識される。

でも、言葉の意味を分解して考えてみると、
「教育」する「ママ」だから、根本的に
いたって健全な母親の仕事なのである。言葉的には。

その意味で、
全国のママ連中には、「私は教育ママだ」と
胸をはって言えるようになってもらいたいと思ってしまう。

さっきも言ったとおり、これは一般的に言われている、
あるいは意図された意味の「教育ママ」の定義とは異なるが、
物事は何でも良い面にフォーカスして見ていくほうが良い。

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