シャネル

シャネル(CHANEL)は、女性ファッションデザイナーのシャネルが始めたファッションブランドで「古い価値観にとらわれない女性像」をブランドポリシーにしています。

シャネルの最後

シャネルは1954年に、スイスへの亡命生活を漸く終えてファッション界へカムバックしました。
当時は未だ第二次世界大戦時のシャネルの言動に対する嫌悪感が根強く残っていて「古臭いファッション」とヨーロッパでは散々な目にあわされたシャネルですが、戦後10年近い年月でドイツやココへの嫌悪感が薄まったのと、ウーマンリブ運動が台頭し女性の社会進出が盛んだったアメリカでは熱狂的に受け入れられました。
そして
翌年シャネル・スーツ(ブレードの縁取りがある、ウールのスーツ)を発表するや、「アメリカで過去50年間でもっとも大きな影響力を与えたファッションデザイナー」としてモード・オスカー賞を受賞してしまいました。
スイスの墓地
シャネルは亡くなるまでパリのヴァンドーム広場を望むホテル・リッツを、住居としていたのですがそのホテルで1971年コレクションの準備中に87歳で亡くなりました。
亡骸は第二次世界大戦中のドイツへの協力とフランスへの裏切り行為によって高級墓地への埋葬を拒否され、第二次世界大戦後に亡命生活を送たスイス・ローザンヌの墓地「ボア・デュ・ヴォー」に埋葬されています。

シャネルの亡命

第二次世界大戦中の1940年にはフランス全土ががアドルフ・ヒトラー率いるドイツ軍に占領されました。
その時多くのフランス人がレジスタンスとしてドイツ軍による軍事占領に抵抗し、捉えられ拷問されたり、
戦に命を落としたのですが、シャネルはドイツ軍将校と愛人関係を結び、愛人の庇護の下自堕落な生活を送っていました。
このことから、1944年のシャルル・ド・ゴール率いる自由フランス軍と連合軍によりようやくフランスは解放されたのですが、シャネルは対独協力者であったためフランス中からの非難を浴びて、愛人とともに戦後の数年間は亡命せざるを得なくなりスイスのローザンヌで亡命生活を送っていました。
このため今でもシャネルを「ナチスに魂を売った売国奴」として嫌っているフランス人が沢山いるそうです。

シャネルの生れ

シャネルはフランス南西部オーベルニュ地方ソミュールの救済病院で生まれる。
11歳でシャネルの母親が他界、父にシャネルは捨てられ、孤児院や修道院を転々としながら育った人です。
シャネルの愛称は「ココ」でした、孤児院を出た後、シャネルは田舎町ムーランでお針子をして暮らしていたのですが、お針子仕事の傍ら、歌手を志しシャネルはキャバレーで歌っていました。
その後シャネルは芸能界を一時はあきらめ、この頃の交際相手であったエチエンヌ・バルサン将校に伴われパリ郊外へ移り、エチエンヌ・バルサンとその友人達のシャネルとなった彼の牧場でシャネルは過ごしていました。

徒然にシャネルが造った帽子のデザインがその社交界に認められ、バルサンの援助をうけて、1909年、マルゼルブ大通りに、シャネルは帽子のアトリエを開業できました。

暫くしてシャネルはバルサンとは別れて、一生涯シャネルの愛する人となったイギリス人青年実業家アーサー・カペルと知り合いました。
カペルの助力によりパリのカンボン通り21番地に「シャネル・モード」の名で帽子専門店を開店出来ました。
しかしカペルはわずかな期間でしたが政略結婚してしまいます。
大戦終焉後彼は政略結婚を悔やんで、シャネルと幸せになろうと決意したのですが、翌年カペルは事故死してしまいシャネルの生涯の夢は惜しくも消えてしまいました。
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